2016年7月7日木曜日

2016参院選: ぼくは支持する相手ではなく、対話する相手を選びます。

2016年の参議院選挙が目前に迫ってきました。今回、ぼくはこれまでになくいろいろなことを調べ、人に話を聞き、考えました。最初は“だれに、どの政党に投票すればいいか”という観点。でもそれは次第に変わり、この選挙に“僕自身がどう向き合うべきなのか”という観点になりました、そして出した答えは、“対話する相手を選ぶ意思表明”として選挙に参加することにしました。政治的な発言は控えていたのですが、これは僕の人生にもかかわるような気づきだと思うので、ブログとして残すことにしました。




  それぞれの正義、超複雑化した社会、答えがだせないもどかしさ
今回の選挙に当たって参考にしたサイトをいくつかまず、ご紹介します。
 国会議員白書
 (国会議員の皆さんの発言状況などが分かります)
 http://kokkai.sugawarataku.net/index.html

 国会議員いちらんリスト
 (国会議員の皆さんの活動や問い合わせ先の一覧)
 http://democracy.minibird.jp/

 自民党憲法改正草案
 (なんだかんだ、話題のやつです)
 https://jimin.ncss.nifty.com/pdf/news/policy/130250_1.pdf

 朝日・東大谷口研究室共同調査 候補者アンケート
 (争点ごとに候補者の意見が分かります)
 http://www.asahi.com/senkyo/senkyo2016/asahitodai/

 Twitterの政党に質問シリーズ
 (批判的な質問も多いですが、いろんな観点が見えます)
 #自民党に質問 まとめ
 http://matome.naver.jp/odai/2146660736358141001
 他、#公明党に質問、#民進党に質問、#社民党に質問、#共産党に質問、#おおさか維新に質問、#日本のこころに質問、#生活の党に質問

 日本再興戦略2016
 (国の経済政策の方向感が見えます)
 http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/

その他、Facebookをみたり、Twitterをみたり、人と話したり、新聞読んだり、YouTube見たり。。。政党も何も問わず、見れるだけ見てみました。

その結果わかったことは、それぞれの観点でみんな正義を貫いていること、正しいと思うこと、やりたいと思うことをやっているということでした。ただ反対側から見たら、それは正義ではなくなる、というだけで。

そこからみえたものは超複雑化した社会のシステムでした。単純に答えは出せない。確かに必要かもしれないけれど、そんな簡単に割り切れない。軍事、経済、福祉などその観点からもリスクを考えれば備えや打ち手は必要だけども、だれかがそのために犠牲になる、ましてや自分の大切な人が、自分自身が犠牲になるようなことに直面したと考えてたら、諸手をあげて賛成することは難しい。とはいえ、何もしないで手をこまねいているだけじゃいけないこともわかっている。

そして、何が正しいかなんてわからない、という感覚が強く残りました。誰かに答えを求めても、無理やり信じること以外に選択肢がなくなっている。出口が見えない不安が広がり、感情論も浮き上がってくる。どんなに考えても自分自身が本当に腹落ちした、納得できる答えも出てこない。そんな状況が僕の中にはありました。



  気づいたことは自分の中の決めつけとあきらめと恐れ
それぞれの正義がぶつかり、複雑化した中で、自分自身は答えの出ないもどかしさの中にいる。そんな自分自身を一歩引いてみると、僕自身の中には、無意識に決めつけていたこと、あきらめていたこと、恐れていたことがありました。

決めつけていたことは、政治の世界と日常は関係ない、と思っていたこと。どこかで勝手に切り離していたこと。自分の意志、生活者としての個人の意思は遠く及ばないということでした。国が決めたことに従う、行政が決めたことに従う、ということを言葉では否定しながらも、どこか心の奥で“それが当たり前のこと”としていました。

あきらめていたことは、選挙しかチャンスがなく、それ以上は何をやっても無駄。結局どうやっても一緒で、政治は何も変わらないし、社会もこれまでのパターンを続けていくだけでしかない、というもの。いかに難しい社会の中でも、“それなりの幸せを得られるか”というところで妥協していたんだという気づきでした。

恐れていたことは、意見がぶつかること、対立することでした。政治について語ることはどこかタブーな感じがしていて、支持を明確にして、そうじゃないひとたちに批判されることをたた恐れている。自分と異なる意見の人たちを受け入れることをただ恐れている。だったら、だれかの意見に乗っかっちゃったほうが、“安全で楽だ”って思っていました。

この無意識に持っていた決めつけ・あきらめ・恐れに気づいて見えてきたことは、“本当に自分自身が勝手なエゴの塊だった”というものでした。国際的なスポーツのイベントがあれば日本選手の活躍に一喜一憂し、阪神淡路大震災、東日本大震災や熊本地震などの大災害が起きれば同じ日本人としてできることをしたいと行動し、日本社会への貢献という観点から社会課題解決の事業にも取り組んでいるつもりでした。だけれどもそれは、“ただそうしている自分に酔っているだけ”だったんだということに気づきました。本当にこの国の未来を、この国で暮らす家族や仲間たちのことを思っていない、思えていない、“誰も何も愛せていない自分”がいたことにやっと気づきました。全然、真剣じゃなかった、うわべだけだったわけです。


  愛すべき家族と仲間のためにできることは“対話を始めること”
国はひとでできています。そしてぼくが触れられるひとは、身近にいる家族と仲間たちだけです。この日本の未来をどうこうできるような才覚もないし、度量もありません。でも、例え“誰も何も愛せていない自分”だったとしても、家族や仲間のことを“愛していたい”という気持ちに偽りはありません。だから、不器用でも、ちゃんとできなくても、ぼくなりに家族と仲間を愛していこうという“想い”がいま、ぼくのなかにあります

そしてその“想い”からもう一度、今起きていることを見直したとき、自分の中でやっと答えが出てきました。

選挙に参加する、投票するということは、単純にどこかの候補者や政党を支持ずるということじゃないんだ、ということ。投票日に投票したら、あとは傍観者、知らんぷり、責任は政治家だけ、というものでもないということ。できないことがない、ということなんてないということ。

こんな気づきが得られたら、やるべきこと(というよりはぼくなりにやりたいこと)が5つ出てきました。

①自分自身の願い、つまりどんな未来を望んでいるかを問い、考え、描くこと

②自分自身が願いをもって、対話したいと思う相手を候補者・政党から選ぶこと

③自分自身の意志の表明として、その候補者・政党に投票すること

④自分自身の願いは、自分自身として動き、実践すること

⑤自分自身の実践によって得た気づきを元に、投票した候補者・政党と対話し続けること

冷静に考えてみれば当たり前だったなと思います。違う人間なのだから、どこまでいっても100%意見が一致してすべてを単純に託せる相手なんて存在しません。必ず意見も食い違うこともあるだろうし、思った通りやってもらえないことだって当然ある。だったら、自分の意見をぶつけて、対話できる相手を選んで対話していけばいいだけ。

もちろん、自分の意見が間違っているかもしれません。でももし本当に間違いなら、対話を通じて修正することで、ぼくは過ちを犯さなくて済むことになります。もし間違いではなく正しかったのなら、その意見を伝えたことでぼくの大切な家族や仲間のためになるし、社会にちょっとだけでも貢献することになる。

つまり僕にとって選挙は1回きりのイベントじゃなくて、自分自身がどうやって大切な人たちとの未来をつくっていくかを考え、そして行動するための“きっかけ”であり、“始まり”だったわけです。


  まとめ: 対話する相手を選ぶ意思表明としての選挙
社会にはいろんな人がいて、多種多様な考え方があって、どれが正しいかなんて一概には言えません。だから、だれがどの候補者や政党にどのように関わってもいいわけです。そして選挙をしたあとに、どのような行動をとるのもそれぞれの自由でいいんだなと改めて理解できました。

だからぼくは選挙を、“自分が自分の大切な人たちと作りたい未来のために対話を重ねるべき相手を選ぶ意思表明の機会”と位置付けようと思います。そしてこの選挙で投票した候補者・政党に、ぼくが見えたもの・感じたことを伝えます。投票した候補者・政党が何をやろうとしているのか、どう考えているのかを自分の周りに伝え、意見をもらいます。この日本という国と、この国で一緒に暮らすぼくの大切な家族と仲間を愛すために、大切な家族と仲間が願う未来が叶う世界を創るために、ファシリテーターとして僕が持てるだけの慈愛と勇気をもって。




※編集後記
今回の選挙、歴史的な意味も社会的な意味も僕にはわかりません。でもすくなくとも、僕の人生にとってはターニングポイントのひとつになるのかなと感じています。
対話相手としては、いろいろなつながりを踏まえて対話してみたいと思った、おおさか維新の会 丹羽大さん(選挙区)、自民党の伊藤ようすけさん(比例区)を考えてます。